LOGINその人は、たぶん私より少し年下だった。
柔らかそうな黒髪。穏やかな目元。すっと通った鼻筋。高そうなスーツなのに、着ている本人がそれを主張していない。 陽斗とは違う種類の人だと思った。 陽斗は人の視線を集める。自分が見られていることをよく知っている立ち方をする。 目の前の人は、見られることに慣れているのに、見せようとしていない。 その差が少し怖かった。 「……失礼しました」 先に視線を外したのは彼だった。 声まで柔らかい。 私は慌てて左手を引っ込めた。指輪を見られたからといって、何を言われたわけでもない。それなのに急に恥ずかしくなった。 「いえ、こちらこそ」 何がこちらこそなのか。 私は今、誰に何を謝っているのか。 人生が散らかりすぎて、言葉の置き場が見つからない。 彼はエレベーターから降り、私の横を通り過ぎようとした。ほんのり清潔な香りがした。香水というより、洗いたての白い布みたいな匂い。 その時、廊下の奥から女性の声が聞こえた。 「玲央さん?」 彼の足が止まる。 玲央。 その名前に、なぜか聞き覚えがあった。 いや、名前というより名字の方だ。会場の案内板。ホテルのロビーに並んでいた企業名。陽斗がいつか口にした巨大なグループ名。 彼は振り返らなかった。 ただ少しだけ、困ったように目を伏せた。 「……少々、面倒な状況になりました」 面倒。 今、面倒と言った。 とても上品な顔で。 私は思わず彼を見た。彼もこちらを見る。目が合った瞬間、彼はわずかに考えるような顔をした。 嫌な予感がした。 人生でだいたい嫌な予感は当たる。今日など特に当たり日だ。 「失礼ですが」 「はい」 「少しだけ、協力していただけませんか」 はい? 協力? この状況で? 私は会場から婚約破棄されて出てきたばかりの女である。顔色はたぶん悪い。指輪も外せていない。心の中では陽斗の笑顔を百回くらい蹴っている。 そんな女に協力を求める人間は、たぶん普通ではない。 「内容によります」 自分でも驚くくらい冷静な声が出た。 彼は少しだけ笑った。 「当然ですね」 廊下の奥から、また声が近づいてくる。女性のものだけではない。複数人の足音。高いヒールが絨毯の上で控えめに鳴っている。 彼は私に向き直った。 「俺は今、家族に決められそうになっている縁談から逃げています」 「初対面の人に言う情報量じゃないです」 「おっしゃる通りです」 即答された。 そこは否定してほしかった。 彼は柔らかい表情のまま続ける。 「ですが、このまま戻れば逃げ場がありません。あなたも、今はあの会場に戻りにくいのではありませんか」 胸の奥をつかまれた気がした。 この人は何も知らない。陽斗のことも、莉愛さんのことも、私がさっきどんな顔であの場を出たかも。 知らないはずなのに、逃げ場がないことだけは正確に言った。 「……戻りにくいだけです」 「戻りたいですか」 聞き方がずるい。 私は唇を噛んだ。 戻りたくない。 あの光の中に。あの笑顔の中に。私が過去にされた場所に。 戻りたくない。 「戻りたくは、ありません」 彼は頷いた。 「では、俺と少しだけ歩いてください」 「歩くだけですか」 「今は」 今は。 その言葉が非常に怪しい。 「人を非常口みたいに使わないでください」 「非常口にしては、あなたはかなり怒っていますね」 「非常口も怒りますよ。雑に開けられたら」 彼が初めて、少しだけ目を丸くした。 それからすぐに笑った。声は出さない。口元だけの上品な笑み。 陽斗の笑顔とは違った。 周囲に見せるためのものではなく、思わずこぼれたみたいな笑い方だった。 廊下の奥から人影が見えた。 私は反射的に背筋を伸ばす。彼は私の隣に立った。近すぎない距離。けれど、ひとりではないとわかる距離。 その距離感が妙に礼儀正しくて、逆に落ち着かなかった。 「玲央さん、こちらにいらしたのね」 上品な女性がこちらへ歩いてくる。 年齢は五十代くらいだろうか。淡いグレーのワンピース。真珠のネックレス。穏やかに微笑んでいるのに、なぜか背筋が伸びる。 強い人だ。 見ただけでわかる。 彼は静かに頭を下げた。 「母さん」 母。 つまり、この人が縁談を決めようとしている家族。 待って。 初対面の人の家庭問題に、巻き込まれている。 今日の私、厄日どころではない。業務災害である。 女性の視線が私に向いた。 柔らかい。けれど、逃げ場がない。 「そちらの方は?」 彼が答える前に、私は一歩だけ前に出た。 なぜ出たのかは自分でもわからない。 ただ、これ以上誰かの後ろに立って、知らないうちに役を決められるのが嫌だった。 「朝比奈琴葉と申します」 声は震えなかった。 自分でも少し驚いた。 女性の目がかすかに細められる。 「朝比奈さん」 「はい」 「玲央とは、どういうご関係かしら」 どういう関係。 今この瞬間、私が一番聞きたい。 隣で彼が静かに息を吸う気配がした。 何か言うつもりだ。 たぶん、都合のいい嘘を。 でもその前に、私の口が動いていた。 「今から確認するところです」 女性が瞬きをした。 彼も、こちらを見た。 しまった。 正直すぎた。 でももう遅い。 私は笑った。会場で陽斗に向けた笑顔とは違う。たぶん少しだけ開き直った笑顔だった。 「私も先ほど巻き込まれたばかりですので」 長い沈黙が落ちた。 やってしまった。 そう思った直後、女性がふっと笑った。 「あら」 その声は、とても楽しそうだった。 隣の彼が、なぜか少し驚いた顔をしている。 その表情を見て、私は思った。 もしかして私、今。 とんでもない人に、とんでもない返事をしたのではないだろうか。琴葉から届いた夕飯の写真を、玲央はもう一度眺めた。 鶏そぼろと卵、小松菜が盛りつけられた丼。高級料理店の一皿とは違う、飾り気のない家庭料理だった。 けれど、玲央にとっては妙に印象深い写真だった。 琴葉が自分のために料理を作ったこと。そして、その出来事を自分に伝えたいと思ってくれたこと。 何より嬉しかったのは、最後のやり取りだ。『いつか琴葉さんが誰かと食べてもいいと思える時が来たら、その時は俺も候補に入れてもらえると嬉しいです』『その時が来たら、考えます』 断られなかった。 もちろん、約束されたわけでもない。それくらいは分かっている。 それでも、以前の琴葉なら、もっと慎重に距離を取っていたかもしれない。 玲央はスマホを伏せ、ソファの背にもたれた。「……なるほど」「何がなるほどなんだ?」 突然声をかけられ、顔を上げる。 リビングの入口に、兄の蒼真が立っていた。「いや、少し考え事をしていました」「仕事か?」「違います。琴葉さんのことです」「おお」 蒼真の表情が、分かりやすく変わった。 しまった、と思った時には遅かった。「母さん! 玲央が琴葉さんのことで考え事をしてる!」「兄さん、わざわざ報告しなくても」「何を言う。鷹宮家では重要案件だろう」「案件ではありません」 その声を聞きつけたのか、廊下の向こうから桐華が顔を出した。「あら、琴葉さんのお話?」 その後ろには、ちょうど書斎から出てきた征一郎までいる。 玲央は内心でため息をついた。 なぜ家族が揃うのだろう。 しかも、全員が妙に楽しそうだ。「それで、何があったんだ?」 蒼真に促され、玲央は少し考えた。 琴葉が自分のために料理を作り、その写真を送ってくれたこと。いつか誰かと食卓を囲む時には、自分も候補
玲央さんからの返事は、すぐに来た。『とても美味しそうです』 その一文だけで、肩の力が抜けた。 少しして、続きが届く。『琴葉さんが、自分のために作ったご飯なのですね』 私は箸を持ったまま、画面を見つめた。 玲央さんは、そこを見てくれる。 料理の出来栄えだけではなく、私が自分のために作ったことを。 そのことが、どうしようもなく嬉しかった。『はい。少し緊張しました』『料理は緊張するものなのですか』 真面目な質問に、少し笑ってしまう。『誰かに出すわけじゃないのに、失敗したらどうしようと思いました』『琴葉さんが食べるご飯なのに、ですか』『はい。自分のために作ることに、まだ慣れていないのかもしれません』 送ってから、少しだけ踏み込みすぎただろうかと思った。 けれど、玲央さんの返事は急がなかった。 数秒置いてから届いた言葉は、いつものように静かだった。『慣れていないことを、今日一つ始めたのですね』 私はその文を読み、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 大げさに褒めるのではなく。 成功か失敗かで判断するのでもなく。 ただ、始めたことを見てくれる。『そう言われると、少し立派なことをした気がします』『立派だと思います』『そぼろ丼を作っただけです』『琴葉さんが、自分のために作ったそぼろ丼です』 私はまた、返事に困った。 どうしてこの人は、何でもないことをこんなふうに大事に受け取ってくれるのだろう。 嬉しい。 怖い。 その二つがまた、同じ場所で揺れる。『味はどうですか』 玲央さんから、次のメッセージが届いた。 私はひと口食べてから返した。『少し濃いです。でも、美味しいです』『次は少し薄くできますね』
その日の仕事は、思っていたより落ち着いて進んだ。 結和ケアの正式導入協議に向けた確認事項はまだいくつもある。けれど、以前のように一つの不安から次の不安へ走っていく感じはなかった。 メールを確認し、資料を開き、必要な箇所だけを直す。 分からないところは、分からないまま印をつける。 全部を一度に片づけようとしない。 それだけのことなのに、少しだけ呼吸が楽だった。 昼休み、朱音は何事もなかったようにコンビニのサラダを食べながら、私の方をちらりと見た。「料理本、今日開く?」「たぶん帰ってから」「お、生活改善プロジェクト始動」「その名前は採用しない」「じゃあ、一人分ご飯計画」「それはまだまし」 そんな軽いやり取りのあと、朱音はそれ以上踏み込まなかった。 嬉しいなら、嬉しいことまで保留にしなくていい。 朝に言われたその言葉が、仕事をしている間も、時々ふっと戻ってきた。 嬉しい。 その言葉を、自分の中でちゃんと認めるのは難しい。 喜べば、次に失うのが怖くなる。 大事にすれば、壊れた時が怖くなる。 近づけば、離れる時の痛みまで想像してしまう。 陽斗との婚約が終わった時、私は自分が何を間違えたのかを何度も考えた。もっと早く気づくべきだったのか。もっと違う言い方をすればよかったのか。もっと自分を押し殺せば、形だけは続いたのか。 今なら、その考え方自体が苦しかったのだと分かる。 それでも、簡単に全部を手放せるわけではない。 終業後、私はまっすぐ部屋へ帰った。 スーパーで卵と小松菜、鶏ひき肉を買う。料理本の最初の方に載っていた、簡単なそぼろ丼なら作れそうだと思ったからだ。 誰かに出す料理ではない。 失敗しても、私が食べるだけ。 それなのに、キッチンに立つと少しだけ緊張した。 本を開き、手順を確認する。 材料を切
週明けの朝、私はいつもより少し早く会社に着いた。 鞄の中には、休日に本屋で買った一人分の料理本が入っている。なぜ会社に持ってきたのかと聞かれたら、自分でも少し困る。朝、部屋を出る前にテーブルの上に置いてあるのを見て、なんとなく鞄へ入れてしまった。 休みの日に、自分で選んで買った本。 ただそれだけなのに、置いていくのが少し惜しかった。 その本の帯には、『まずは自分のために、ちゃんと食べる』と書かれていた。 その一文が目に入った時、私は少しだけ立ち止まってしまった。誰かの好みに合わせる料理ではなく、失敗しないための料理でもなく、まず自分が食べるための料理。 そんな当たり前のことを、私はずいぶん長く後回しにしていた気がする。 デスクに鞄を置き、パソコンを立ち上げる。結和ケアの正式導入協議はまだ本格的に始まっていないけれど、確認しておきたいことはいくつかあった。 それでも、今日は資料へ飛びつかない。 まずはメールを確認して、予定を見て、落ち着いて一つずつ進める。 そう思っていたところで、背後から声がした。「琴葉」「おはよう、朱音」「おはよう。で、その顔は何?」 いきなりだった。 私は思わず振り返る。「顔?」「うん。週明けの朝から、妙に穏やかな顔してる。仕事で勝った人の顔とはちょっと違うし、よく寝た人の顔とも違う」「顔だけで分類しないで」「じゃあ、心の距離感で分類する」「もっと困る」 朱音は自分のデスクに荷物を置きながら、こちらをじっと見る。 その目が、妙に鋭い。「水族館の人?」 私は一瞬だけ返事に詰まった。 本当に、一瞬だけ。 けれど朱音はそれを見逃さなかった。「はい、今ので八割確定」「何が」「水族館の人が関係してる」「……昨日、少し会っただけ」「少し
本屋の中を、私たちはゆっくり歩いた。 入口近くの新刊コーナーを過ぎると、雑誌、文庫、実用書と棚が続いている。休日の本屋は、静かなのに人の気配があって、ただ眺めているだけでも少し落ち着いた。「玲央さんは普段、本屋に来ますか」「仕事関係の書籍を探す時はあります。ただ、目的なく歩くことはあまりありません」「今日は目的なしで歩いてみます?」「はい。努力します」「努力が必要なんですね」「目的を設定したくなります」「さっきの資料を見たあとだと、説得力がすごいです」「反省しています」「責めてはいません」 玲央さんは少し安心したように見えた。 私はその横顔を見て、胸の奥がほんの少し温かくなる。 不器用だ。 でも、不器用なまま近づこうとしてくれている。 料理本の棚で、私は足を止めた。 表紙には、簡単な作り置きや一人分のレシピが並んでいる。 以前なら、料理本を見ても、自分のために作る料理は後回しだった。誰かの好みに合わせることや、失敗しないことばかり考えていた気がする。 今は少し違う。 自分が食べたいものを、自分のために作る。 それはまだ少し慣れないけれど、悪くない。「気になる本がありますか」 玲央さんが尋ねた。「一人分のご飯の本を少し」「良いと思います」「すぐ褒めますね」「本当に良いと思ったので」 そう言われると、私は返事に困ってしまう。 小さなことを肯定されるのに、まだ慣れていない。 でも、嫌ではなかった。 私は一冊を手に取った。「買ってみようかな」「はい」「……玲央さん、買ってくれようとしないでくださいね」「今、少し考えました」「正直ですね」「普通の休日では、自分で買う方が自然ですか」「たぶ
鉢植えの名前が「保留」になった翌日、私はスマホの画面を見つめて少しだけ悩んでいた。 玲央さんから届いたメッセージは、短い。『明日、少しだけ会えますか』 少しだけ。 その言葉に、以前なら構えていたと思う。 少しだけと言いながら、個室のある店が出てくるかもしれない。車が来るかもしれない。鷹宮家基準の「少し」が、私の感覚ではまったく少しではないかもしれない。 けれど、最近の玲央さんはちゃんと聞いてくれる。 普通に聞く。 大げさにしない。 それを一生懸命守ろうとしてくれている。 私は少し迷ってから、返事を打った。『会えます。普通の休日っぽい感じなら』 送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 普通の休日っぽい感じ。 自分で書いておきながら、曖昧すぎる。 けれど、玲央さんからの返信はすぐに来た。『分かりました。普通の休日について調べます』『調べすぎないでください』『はい。ほどほどにします』 ほどほど。 その言葉を、玲央さんがどのくらいの範囲で捉えるのか少し不安だったけれど、私はそれ以上追及しなかった。 翌日、待ち合わせは駅前の本屋になった。 玲央さんの提案だった。『本屋なら、予約が不要で、入退店も自由です。普通の休日に含まれると思います』 説明は少し面白かったけれど、確かに悪くなかった。 約束の時間に本屋へ行くと、玲央さんは入口の近くで待っていた。いつも通り整った服装なのに、今日は片手に小さなメモ帳、もう片方の手に薄いクリアファイルを持っている。 私は、入口の前で一度立ち止まった。 クリアファイル。 普通の休日に、クリアファイル。 嫌な予感しかしない。「おはようございます」「おはようございます。……玲央さん、そのファイルは?」「調べすぎない