Share

第3話 高級すぎる非常口

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-07-01 08:00:22

その人は、たぶん私より少し年下だった。

柔らかそうな黒髪。穏やかな目元。すっと通った鼻筋。高そうなスーツなのに、着ている本人がそれを主張していない。

陽斗とは違う種類の人だと思った。

陽斗は人の視線を集める。自分が見られていることをよく知っている立ち方をする。

目の前の人は、見られることに慣れているのに、見せようとしていない。

その差が少し怖かった。

「……失礼しました」

先に視線を外したのは彼だった。

声まで柔らかい。

私は慌てて左手を引っ込めた。指輪を見られたからといって、何を言われたわけでもない。それなのに急に恥ずかしくなった。

「いえ、こちらこそ」

何がこちらこそなのか。

私は今、誰に何を謝っているのか。

人生が散らかりすぎて、言葉の置き場が見つからない。

彼はエレベーターから降り、私の横を通り過ぎようとした。ほんのり清潔な香りがした。香水というより、洗いたての白い布みたいな匂い。

その時、廊下の奥から女性の声が聞こえた。

「玲央さん?」

彼の足が止まる。

玲央。

その名前に、なぜか聞き覚えがあった。

いや、名前というより名字の方だ。会場の案内板。ホテルのロビーに並んでいた企業名。陽斗がいつか口にした巨大なグループ名。

彼は振り返らなかった。

ただ少しだけ、困ったように目を伏せた。

「……少々、面倒な状況になりました」

面倒。

今、面倒と言った。

とても上品な顔で。

私は思わず彼を見た。彼もこちらを見る。目が合った瞬間、彼はわずかに考えるような顔をした。

嫌な予感がした。

人生でだいたい嫌な予感は当たる。今日など特に当たり日だ。

「失礼ですが」

「はい」

「少しだけ、協力していただけませんか」

はい?

協力?

この状況で?

私は会場から婚約破棄されて出てきたばかりの女である。顔色はたぶん悪い。指輪も外せていない。心の中では陽斗の笑顔を百回くらい蹴っている。

そんな女に協力を求める人間は、たぶん普通ではない。

「内容によります」

自分でも驚くくらい冷静な声が出た。

彼は少しだけ笑った。

「当然ですね」

廊下の奥から、また声が近づいてくる。女性のものだけではない。複数人の足音。高いヒールが絨毯の上で控えめに鳴っている。

彼は私に向き直った。

「俺は今、家族に決められそうになっている縁談から逃げています」

「初対面の人に言う情報量じゃないです」

「おっしゃる通りです」

即答された。

そこは否定してほしかった。

彼は柔らかい表情のまま続ける。

「ですが、このまま戻れば逃げ場がありません。あなたも、今はあの会場に戻りにくいのではありませんか」

胸の奥をつかまれた気がした。

この人は何も知らない。陽斗のことも、莉愛さんのことも、私がさっきどんな顔であの場を出たかも。

知らないはずなのに、逃げ場がないことだけは正確に言った。

「……戻りにくいだけです」

「戻りたいですか」

聞き方がずるい。

私は唇を噛んだ。

戻りたくない。

あの光の中に。あの笑顔の中に。私が過去にされた場所に。

戻りたくない。

「戻りたくは、ありません」

彼は頷いた。

「では、俺と少しだけ歩いてください」

「歩くだけですか」

「今は」

今は。

その言葉が非常に怪しい。

「人を非常口みたいに使わないでください」

「非常口にしては、あなたはかなり怒っていますね」

「非常口も怒りますよ。雑に開けられたら」

彼が初めて、少しだけ目を丸くした。

それからすぐに笑った。声は出さない。口元だけの上品な笑み。

陽斗の笑顔とは違った。

周囲に見せるためのものではなく、思わずこぼれたみたいな笑い方だった。

廊下の奥から人影が見えた。

私は反射的に背筋を伸ばす。彼は私の隣に立った。近すぎない距離。けれど、ひとりではないとわかる距離。

その距離感が妙に礼儀正しくて、逆に落ち着かなかった。

「玲央さん、こちらにいらしたのね」

上品な女性がこちらへ歩いてくる。

年齢は五十代くらいだろうか。淡いグレーのワンピース。真珠のネックレス。穏やかに微笑んでいるのに、なぜか背筋が伸びる。

強い人だ。

見ただけでわかる。

彼は静かに頭を下げた。

「母さん」

母。

つまり、この人が縁談を決めようとしている家族。

待って。

初対面の人の家庭問題に、巻き込まれている。

今日の私、厄日どころではない。業務災害である。

女性の視線が私に向いた。

柔らかい。けれど、逃げ場がない。

「そちらの方は?」

彼が答える前に、私は一歩だけ前に出た。

なぜ出たのかは自分でもわからない。

ただ、これ以上誰かの後ろに立って、知らないうちに役を決められるのが嫌だった。

「朝比奈琴葉と申します」

声は震えなかった。

自分でも少し驚いた。

女性の目がかすかに細められる。

「朝比奈さん」

「はい」

「玲央とは、どういうご関係かしら」

どういう関係。

今この瞬間、私が一番聞きたい。

隣で彼が静かに息を吸う気配がした。

何か言うつもりだ。

たぶん、都合のいい嘘を。

でもその前に、私の口が動いていた。

「今から確認するところです」

女性が瞬きをした。

彼も、こちらを見た。

しまった。

正直すぎた。

でももう遅い。

私は笑った。会場で陽斗に向けた笑顔とは違う。たぶん少しだけ開き直った笑顔だった。

「私も先ほど巻き込まれたばかりですので」

長い沈黙が落ちた。

やってしまった。

そう思った直後、女性がふっと笑った。

「あら」

その声は、とても楽しそうだった。

隣の彼が、なぜか少し驚いた顔をしている。

その表情を見て、私は思った。

もしかして私、今。

とんでもない人に、とんでもない返事をしたのではないだろうか。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第100話 現場の一言

     修正した資料を結和ケアへ送ってから、二日後。 宮坂さんから連絡が入った。『現場の反応が出ました。良いものも、厳しいものもあります』 その一文を見た瞬間、背筋が伸びた。 良いものも。 厳しいものも。 どちらか片方ではないことに、少しだけ救われる。 けれど、次の打ち合わせで共有された内容は、思っていたよりも正直だった。「まず、現場向けの一枚資料については、前よりずっと読みやすいという声がありました」 宮坂さんが言った。 私は小さく息を吐く。「ありがとうございます」「ただし」 来た。 私はペンを握り直した。「これでもまだ、訪問前には読まないと思う、という意見もありました」「……はい」 予想していた。 でも、実際に聞くとやはり少し痛い。 高梨さんが補足する。「読めないというより、読むタイミングがないんです。朝は予定確認で埋まっていますし、訪問後は次の移動があります。資料を読むなら、訪問前後ではなく、最初の説明会で頭に入れる形の方が現実的です」「では、現場向け一枚資料は、日々確認するものではなく、初回説明用に近いですね」「はい。毎回見るものは、もっと短くないと無理です」「もっと短く」 私は思わず復唱した。 高梨さんは、少し申し訳なさそうに笑う。「すみません。でも、現場で本当に見るのは、たぶん三行です」「三行」「何を見たらいいか。どこに記録するか。迷ったら誰に聞くか」 私は手元の資料を見下ろした。 削ったつもりだった。 かなり削ったつもりだった。 それでも、まだ多い。 けれど不思議と、前ほど落ち込まなかった。 具体的に言われたからだ。 三行。 それなら直せる。「分かりました。現場向けの確認

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第99話 削る勇気

     会社へ戻ってから、私は修正版の資料を開いた。 結和ケアで赤字だらけになった紙を横に置き、パソコンの画面と見比べる。 現場向け一枚資料。 試験導入の目的。 入力項目。 判断の流れ。 家族への説明。 全部、大事だと思って入れた。 けれど宮坂さんは言った。 現場向けの一枚目に、目的説明はいらない。 高梨さんは言った。 本当は二分で見たい。 二分。 その言葉は、思っていたより強かった。 私は一行目にあった説明文を選択する。『本試験導入は、地域内における生活支援情報の連携を円滑にし、利用者および家族への対応品質を安定化させることを目的とする』 丁寧に書いたつもりだった。 でも、現場の人が訪問前にこれを読んで、すぐ動けるだろうか。 答えは、たぶん違う。 私はその一文を削除した。 画面から文字が消える。 たった一行なのに、少し胸が痛んだ。 続けて、二行目も消す。 説明を短くし、順番を変える。 最初に置くのは、目的ではない。 今日やること。 いつ書くか。 誰へつなぐか。 そこだけに絞る。「朝比奈さん、かなり削りますね」 隣で確認していた事業推進室の担当者が、少し驚いた顔をした。「はい」「大丈夫ですか。情報が足りないと言われませんか」「言われると思います」 私は画面を見たまま答えた。「でも、最初から全部入れて読まれないよりは、使われてから足したいです」 言ってから、自分でも少し驚いた。 以前の私なら、足りないと言われるのが怖くて、念のための言葉を残していたと思う。 責任を問われないように。 説明不足だと言われないように。 でも、念のための言葉が増え

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第98話 続く案にしてください

     翌週の午前、私は結和ケアの会議室にいた。 大きすぎない机。 少し使い込まれた椅子。 壁際には、利用者向けの案内チラシや地域包括支援センターの連絡先一覧が貼られている。 鷹宮グループの会議室とは、空気が違った。 ここには、毎日の困りごとがそのまま置かれている気がした。「では、始めましょうか」 宮坂さんが資料を開いた。 今日の参加者は、宮坂さんのほかに、訪問支援チームの高梨瑞穂さん、事務側の担当者、そして私たち鷹宮側の事業推進室の担当者だった。 高梨さんは、最初から少し険しい顔をしていた。 怒っているというより、警戒している。 新しい仕組み。 新しい記録。 新しい入力。 現場にとって、それが必ずしも歓迎される言葉ではないことは、もう分かっている。「朝比奈さん、まず率直に言いますね」 宮坂さんが一枚目の資料を指で押さえた。「これ、現場は読みません」「……はい」 覚悟はしていた。 それでも、正面から言われると胸に来る。「説明としては丁寧です。でも、丁寧すぎます。忙しい時間帯に読むには長いですし、どこを見ればいいか分かりにくい」 高梨さんも頷いた。「現場の人間は、理念を否定したいわけじゃないんです。ただ、訪問前後の五分で確認できないものは、結局あと回しになります」「五分」「いえ、本当は二分です」 思わずペンを止めた。 二分。 私が作った説明文は、きっと二分では読めない。 分かっていたつもりだった。 でも、分かっていなかった。「それから、この項目です」 高梨さんが資料の中ほどを指した。「利用者の表情、会話量、室内状況、食事状況、服薬状況、家族連絡の有無。全部大事なのは分かります。でも毎回全部入れるなら、訪問記録が二重になります」「既存の

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第97話 白藤紗雪の保留

     白藤紗雪は交流会の資料を自宅の書斎で開いていた。 白藤福祉財団の理事から預かった出席メモ。 参加団体の一覧。 意見交換で出た懸念。 生活支援連携案に関する簡単な所感。 紗雪はそれらを静かに読み返し、最後に朝比奈琴葉の名前のところで手を止めた。 朝比奈琴葉。 以前、白藤家の席で会った時は、もっと控えめな女性に見えた。 礼儀正しく、出過ぎず、玲央の隣で少し緊張していた。 悪い印象ではない。 ただ、玲央の隣に立つには弱いように見えた。 けれど昨日の交流会では違った。 現場の人間の話を聞き、無理に反論せず、必要なところは認める。 そのうえで、自分の案の軸は手放さない。 華やかな答えではなかった。 人目を引く言葉でもなかった。 けれど、実務の場ではああいう答えの方が残る。「現場の自由を広げるのではなく、説明の責任を残す……」 紗雪は小さく呟いた。 悪くない。 そう思った。 少なくとも、誰かに守られているだけの女性ではない。 玲央の気まぐれで隣に立っているわけでもない。 それは認めてもいい。 けれど。 紗雪は資料を閉じた。 仕事ができることと、玲央の隣に立つことは同じではない。 玲央は、ただ優秀な女性をそばに置きたい人ではない。 そもそも、そういう近さを必要としてこなかった人だ。 だからこそ紗雪は気になっていた。 なぜ朝比奈琴葉なのか。 家柄でもない。 社交に慣れているわけでもない。 鷹宮家との縁が長いわけでもない。 それでも玲央が視線を向ける。 あの冷静で、必要以上の感情を見せない人が、彼女にだけ一瞬、目を和らげる。 昨日の会場でもそうだった。 玲央は朝比奈琴葉を助けに行かなかった。

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第96話 陽斗は知らない

     交流会の翌日、陽斗はノヴァリンクの会議室で資料を見ていた。 生活支援連携領域の市場整理。 鷹宮グループ側の試験導入予定。 小鳥遊ホールディングスとの共同構想。 見るべき項目はいくつもある。 それなのに、陽斗の意識は何度も昨日の会場へ戻った。 朝比奈琴葉。 そう名札に書かれていた。 けれど、陽斗の中に残っているのは、ただの名札ではない。「お久しぶりです、三枝さん」 あの声。 あの距離。 仕事の場ですので、と静かに線を引いた顔。 陽斗が知っている琴葉なら、あんなふうには返さなかった。 少なくとも、以前はそう思っていた。 呼べば、少し困ったように笑う。 昔のように名前を呼べば、迷いながらも受け止める。 どこかで、そう思っていたのかもしれない。 自分でも気づかないほど、当然のように。「陽斗さん」 声をかけられて顔を上げると、莉愛が立っていた。「さっきから、同じページばかり見てる」「そうかな」「そうよ」 莉愛は向かいの席に座り、陽斗の資料へ視線を落とした。「朝比奈さんのこと?」 陽斗は一拍遅れて笑った。「仕事のことだよ」「そう」 莉愛は笑わなかった。「昨日の朝比奈さん、変わっていたわね」「……そうだね」「陽斗さんが知っていた朝比奈さんとは、違った?」 その言葉は、軽く投げられたようでいて、まっすぐ刺さった。 陽斗は資料を閉じる。「少しね」「少し?」「前は、あんなふうに人前で意見を返すタイプではなかった」「本当に?」「どういう意味?」 莉愛は指先で資料の端を整えた。 動作は綺麗だったが、その声は少し冷えていた。

  • 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します   第95話 褒められるより、直したい

     交流会の翌朝、私はいつもより早く会社に着いた。 デスクに鞄を置き、コートを脱ぐ前に資料を開く。 昨日の書き込みは、改めて見るとかなり多かった。 入力項目を削る。 家族向けの説明文を分ける。 現場スタッフ向けの運用メモは短くする。 判断基準ではなく、判断理由の残し方を整理する。 赤字だらけの紙を見て、少しだけ笑ってしまった。 直すところばかりだ。 でも、嫌ではなかった。 何を直せばいいか分からないまま曖昧に褒められるより、ここを直した方がいいと言われる方が、ずっと前に進める気がする。「琴葉、早いね」 朱音が出社してきて、私の机の上を見る。「昨日の交流会、そんなに大変だった?」「大変でした」「元婚約者?」「それも少し」「その相手?」「それも少し」「水族館の人?」「それも少し」「全部入りじゃん」「でも一番大変だったのは、入力項目の削減です」 朱音は一瞬黙ったあと、妙に感心した顔をした。「元婚約者より資料修正が先に出てくるの、強くなったね」「強くなったんでしょうか」「少なくとも、仕事の顔してる」 そう言われて、私は手元の資料に目を落とした。 仕事の顔。 以前の私は、そんな顔をできていただろうか。 分からない。 でも今は、できるようになりたいと思っている。 昼前、宮坂さんからメールが届いた。 昨日の意見交換を受けて、現場に軽く共有した反応がいくつか書かれている。 予想通り、厳しい。『入力が増えるなら続かない』『家族への説明に使えるなら意味はある』『緊急性の判断を現場任せにされるのは不安』『でも、記録の残し方が統一されるなら助かる』 いい反応だけではない。

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status